諸井さんと私の自宅(現海洋物産)は直線で2K弱。
大学を終え、父を補佐しながらの家業。仕事が嫌になると、私の家に遊ぼにくるのが日課でした。
消防のサイレンが鳴り、諸井さん方面に煙が見える。
「行ったほうがいいよ」・・諸井さんの工場でした。
その15年後、わたしの自宅が火事になりました。再建までの間、諸井さんのアパートに笹渕家が住みました。
平性7年ハタハタ漁解禁。その2~3年後、諸井さんがグイとしょっつるに踏み込む契機となりました。
解禁後ハタハタはまだ高価で、秋田市場は韓国産、北朝鮮からも入荷がありました。
秋田土崎港に小さな北朝鮮の船が横付けし、生で荷揚げしていました。こんな漁船でよく日本海を横断したと驚きました。さすが人権無しの北朝鮮!
わたしといえば、秋田椿台ゴルフクラブの「ハタハタ大漁祭」を企画し、ハタハタに飢えたゴルファーを大勢集めたものです。
参加者は250名。参加賞金額だけで50万。本賞がそれに2割ほど加算される大コンペでした。
11月下旬のコンペも終わり、椿台からの帰途形態が鳴った。
「ハタハタ上がったぞ!」発泡スチロールの会社から、しかし「細かいから買えば駄目だよ~~」
浜にいったらなるほど小さい。寿しを作るにも小さすぎる。
ほとんどが漁協冷凍庫。その後加工業者に売り案内を発令。
用途は「つくだに屋」そして諸井さん。これで諸井さんはグイと踏み込んだ。
その年は、得意の生ハタハタ販売は中止しました。寿し用として20K1000円で販売した記憶があります。(500円だったかな?)
ところが、年末近くに大型ハタハタがあがりはじめた。だがあまりにも遅い。正月直前では扱えません。情けなかった・・。
青森からのメール
先日青森から、「8月2日の日記を読みました」のメールをいただきました。
男鹿市出身の大坪氏で、青森県の水産関係の公的機関にお勤めです。諸井醸造へ水産関係者の視察の段取りなどなされ、諸井さんから貴重な製造上のことを明かしていただいたとのこと。
そんなこともあり、諸井さんへ焼香にお伺いしたとのことでした。
昭和58年「男鹿半島水産加工事業協同組合」が設立。通産省から5年間で5000万の補助金を受ける。主題は「特産品開発」「販路拡大」「人材養成」。
もちろん諸井さんも出資し組合員となる。翌年わたしは職員として採用された。(自身のしごとが不調だったことで、諸井さんが口を聞いてくれた)
その当時から諸井さんは「しょっつる」の開発を強く主張されていました。
しかし出資者の構成は、船主3名、鮮魚出荷者1名、諸井醸造、水産加工希望者。
はでな業種が多く、地味と思われるしょっつるの開発に取り組まず、数年後諸井さんは脱退。
大坪氏へのメールには書ききれないものがあり、順序よく整頓する必要がありました。
それでメールのやりとりのかわりに、最近さぼってばかりの日記を書きはじめることにしました。
時効になったことも随時書きたいと思います。
もちろん、この冬のハタハタ販売についても書いていきます。
なお目の具合が不調で誤字脱字は勘弁!
お盆の仕込み真っ最中です。
そんな中とても快適な夜を過ごしています。
涼しい・・あ~~涼しい。朝方は毛布を引き出そうとおもうほど・・あ~~快適。
猛暑の方々には申し訳ない。
先日の電話でも、千葉の渡辺は息も絶え絶えの雰囲気丸出し。
こちらは夕方のゴルフ練習もはかどっている。
ぜひみなさんにお伝えしたくて・・・性格悪いな~。ゴメン
弔辞
昨年8月から大事な友人4人の訃報が相次いだ。
みなさんは長く経営に携わってきた方です。
わたしの場合は小商売の範囲で経営などと言えばおこがましいが、共通の意識があり懇意に過ごしてきた。
先日の諸井秀樹さん急死は驚きでした。順をおってお話します。
わたしが18で彼は15才。テニスの練習で船川中学校のコートに行ったのが初対面でした。私の弟も軟式テニス部に所属したこともあり、練習にはよくでかけていました。
小柄で痩せた少年でしたが、その後身長は170センチ後半まで伸びていたのには驚きました。しかし痩せていたのは同じ。
その数年後私は上京、かれは東京農大の醸造科に進学。
ある日アルバイト先の法政一高に彼が遊びにきました。農大の学食でご馳走になったこともありました。(ベジタリアン的食事にはややがっくり)
男鹿に戻ってから、彼とペアになり各種大会に参加しました。
わたしの結婚式の段取りを組んでいただいたし、彼の結婚式の司会を努めたこともあります。仲良くすごした青年時代でした。
そのご男鹿半島水産加工組合設立がなされ、当時不遇だったわたしを職員として採用してくれたたのは彼のおかげでした。
彼は当時から「しょっつる」の製造に傾注。それから「しょつつるの諸井」で名を馳せるまでになりました。
わたしも独立後ハタハタでしたので、しょっつる用ハタハタを納品したりで深く関わってきました。
この春、さきがけ新報でハタハタからイワシにしょっつる原料を変更したと記事になり、その後わたしもブリに舵を切ると紹介されました。
大変誠実な方でした。この春、男鹿市商工会会長に就任されたのは喜ばしいことでした。
まだまだ頑張っていただければと、残念だし、とても寂しい思いです。地域にとっても同じ思いでしょう。
冥福をお祈りします。